石橋湛山:母校にあてた手紙の複製、甲府一高で展示

◇GHQによる公職追放時に執筆「忍耐強く努力せよ」

 戦前から平和主義を唱えるジャーナリストとして活躍し、第二次世界大戦後に首相を務めた石橋湛山(たんざん)(1884~1973)が1948年1月に母校、旧制甲府中(現甲府一高)=甲府市美咲2=にあてた手紙の複製が、同校で展示されている。手紙が書かれたのは、湛山がGHQにより公職追放されていた時期に当たる。21日午後2時から、同市朝気1の山梨平和ミュージアムで講演会「石橋湛山と山梨」が開かれ、手紙の背景も紹介される。

 手紙は昨年9月、都内の元同校教諭宅で遺族が発見、同校に寄贈された。長さ約1・5メートルで、紙4枚をつなぎ合わせ、毛筆の流れるような字でしたためられている。あて先は「甲府中学校生徒御一同様」となっている。

 手紙を管理する同校同窓会事務局長の大西勉さん(69)によると、湛山は47年8月、同校に「Boys be Ambitious(少年よ大志を抱け)」と揮毫(きごう)した額を贈呈している。手紙は、学校側が48年正月に出した礼状への返信とみられる。

 湛山は早稲田大を卒業後、東洋経済新報社で約40年間の記者生活を送り、戦争にまい進する軍部に異を唱え続けた。戦後は蔵相、首相などを歴任。同校には何度も赴いて講演したり書を贈ったりするなど、強い愛着を持ち続けていた。夏には山中湖の別荘を訪れ、終生、山梨に愛着を持っていたという。

 同校OBで、湛山研究者で知られる同ミュージアム理事長の浅川保さん(64)は「母校愛もあるだろうが、教育の大切さを知り、何より若者に対する期待を強く持っていた人だった」と語る。

 手紙の中で湛山は「Boys be Ambitious」という言葉について、「此(こ)の語の裏には何ごとにまれ志を立てたなら忍耐強く努力せよ石の上にも三年と云(い)ふ訓辞の含まれてゐることを見落としてはなりません」と書いている。

 湛山は蔵相だった47年5月、GHQにより公職追放された。湛山がGHQの要求に従わなかったためとされるが、手紙の日付は追放の8カ月後だ。

 浅川さんは「湛山が失意の時期にも、後輩への思いを忘れていなかったということを示している」。大西さんも「『忍耐強く努力せよ』という言葉は、母校の後輩に掛けると同時に、自分への思いも込められているのでは」とみる。

 結局、湛山は4年間の公職追放後、政界復帰して首相を務めた。大西さんは「生徒には、信念を曲げない偉大な先輩がいたということを誇りに思い、目標にしてほしい」と話している。

 手紙の複製の見学希望者は事前に同校(電話055・253・3525)に問い合わせが必要。手紙は校内での複製展示のほか、湛山が初代社長を務めた東洋経済新報社が来年6月に刊行する「石橋湛山全集16巻」に全文が収録される予定。大西さんと浅川さんは21日の講演で講師を務める。(春増翔太)

【2010年11月20日 毎日jp > 地域 > 山梨】