内 容
1. ウォーキングの部
午後1時半、分倍河原駅に男子のみ6名が集合。1時35分出発。府中市郷土の森博物館を目指し、30分弱で着いた。
郷土の森博物館は、約14万平方メートルの敷地全体で府中の自然、地形、風土の特徴を表現し、その中に昔の農家や町屋、歴史的な建物などを配置することで、野外を含めた「森」全体を博物館として、ふるさと府中の自然と歴史を知ることができる施設。
まずは入口近くの本館で開催されていたお琴の演奏会鑑賞。次は復元建築物がいくつか並んでいる所を見学。なぜか旧府中尋常高等小学校校舎前に。この校舎は、市立府中第一小学校の前身である府中町立府中尋常高等小学校として1935年(昭和10年)9月に建設されたもの。
ここで質問が出た。尋常高等小学校とは? 後日の調査の結果、国民学校令が施行される前の学校のうち、尋常小学校の教科と高等小学校の教科とを一校に併置した小学校のこと。さらに、下記がわかった。
尋常小学校とは、1886年(明治19年)小学校令により設置され、満6歳以上の児童に初等普通教育を施した義務制の小学校。期間は最初4年、1907年から6年。41年(昭和16年)国民学校令により国民学校初等科と改称された。
高等小学校とは、旧制で、尋常小学校卒業者にさらに程度の高い初等教育を施した学校。修業年限は初め4年、のち2年。義務制ではない。高等科。
さらに歩いて次は早くも小休止。ハケの茶屋にて「ハケ上だんご」なるものを皆でいただいた。この茶屋はハケ(段丘崖)の上にあるためその名前がついたとのこと。
ここで“ハケ”について、府中市内には、武蔵野段丘と立川段丘を区分する国分寺崖線(高さ10m)と、立川段丘と多摩川低地を区分する府中崖線(高さ5~6m)がある。府中市郷土の森園内には、東西に走る多摩川の旧堤防があり、この旧堤防を境にして、園内北側を府中市の大地に、園内南側を多摩川の低地にみたて、旧堤防の斜面を「ハケ」と呼ばれる段丘崖(崖線)とした。
ハケ上だんごは、1本80円材料は米粉(上新粉)のようである。もちもちでやわらかく醤油が焦げる匂いが香ばしかった。
いつまでもいすにすわって休んでいないで、いよいよ梅園へ。まだ満開ではなかったが、たくさんの梅の花が咲いていて、いい匂い。暖かさもあり、もうすぐ春!を感じた。
”白加賀”という梅が一番多かった。さらに“ロウバイの小径”へ。まだロウバイも咲いていた。ロウバイは、通常開花時期は、12/25から翌 2/15頃とのこと。今年は遅くまで咲いているようだ。中国原産で日本には17世紀頃に渡来。漢字は“老梅”ではなく“蝋梅”。「蝋細工のような、梅に似た花」から「蝋梅」の名になったらしい。
水遊びの池を回って、入口に戻った。ここまでの本日の歩行距離はまだ短い。もっと歩こうと府中駅まで歩くことにした。さらに途中大國魂神社にも寄った。ここは、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵国の守り神としてお祀りした神社。この大神は、出雲の大国主神と同神で、大昔、武蔵国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、また医療法やまじないの術も授けられた神様で、俗に福神、または縁結び、厄除け・厄払いの神として有名な神様。かなり広い境内にはたくさんの施設がある。
起源は人皇第十二代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたもの。2000年近く前に造られたのだと、歴史に詳しい磯貝君からも事前に説明があった。さらにこの神社には七不思議があるとの話しを飯野君からあった。その内のひとつは、境内に松の木がないこと。
“境内には松の木が一本もなく、また植樹してもすぐに枯れてしまうといわれています。これは神様がまだ現世の神として散歩しているときの話です。大国様と八幡様が、「どうだい、大国さん、2人で武蔵野の野原に行こう」ということで出かけたものの暗くなっても宿が見当たりません。そのうち八幡様は「ここで待っていろ、俺が宿を捜してくる」と言って出かけましたが帰ってみえません。待ちぼうけをうけた大国様は、「まつはういものつらいもの」「まつは大嫌いだ、まつのはいやだ」と言われたそうです。ここから、大國魂神社では「待つ」を「松」にたとえて、植物の松を嫌うようになったのだと言い、今でも境内には松の木は一本もなく、植えてもすぐに枯れてしまうと言われています。また府中では正月の門松にも松を使わない習慣が残っています。”
あと6つの不思議については、それぞれお調べください。
大國魂神社を出て、本日のゴール、府中駅に午後4時30分着。本日の歩行距離は8Km。
2.グルメの部
仲間と新宿で会う予定で、京王線で新宿に移動。しかし、残念ながら予定していた仲間は別の予定ができたとのことで合流できず。男子4人での飲み会となった。中嶋君には、新宿ということで参加できないことになってしまい申し訳なかった。
男子4名で向かったのは、あの新宿西口思い出横丁。細い道に人がうずめきあっているという感じ。今は観光地化しているとのことで店には入らなくても見学のために歩いている人もいる。外国人も多い。どこの店もかなりの混雑ぶり。初めての店にはなかなか入りにくい雰囲気であるが、ここは飯野君の行きつけの店に。
この店は朝8時開店とのこと。この時はちょうど店を閉めるところだったとのことだったが、飯野君の顔で、延長していただいた。10席ほどのカウンターのみの店で、なじみ客がほとんどとのこと。
ビールで乾杯、その後は日本酒、焼酎とそれぞれ。おつまみ類はまさに家庭の味で、お任せで美味しい物ばかりであった。ここで、「思い出横丁」について。
“昭和25、6年頃の新宿駅西口商店街の歴史を語るのは、まず終戦直後までさかのぼります。
昭和21年頃、戦後の焼け野原となった西口近辺は瓦礫の中で埋もれていました。
その頃は、駅前に衣類品・靴・石鹸その他の日用雑貨を売る露天商があり、おでん・ふかしいも・ゆであずき・天ぷら・海草の佃煮・古本を売る、よしず張りの屋台が三・四十軒並んでいたのですが、火事で全焼。
その後、戸板一枚で区切った露店商のマーケット、統制経済時代の闇市「ラッキーストリート」が出現しました。当時、戦争中に焼け出された家族が頼って逃げた親戚などの家が世田谷・杉並・練馬などにあり、戦争時でもこの地区の人口は一割程度しか減っていません。新宿はそんな地域からの交通の中継地点にあたり、人や物資の流通するターミナル機能をもっていたのです。人々は新宿に集まり、露店はおのおの商売を始めました。
昭和22年頃は、統制品に対する取り締まりが厳しく、ラーメンや今川焼きに使ううどん粉等がそれにあたり商売は苦労しました。統制品ではないものといえば、進駐軍の牛や豚のモツ等です。その頃から、各店の多くはもつ焼き屋を始めるようになり、当時は盛況でした。現在、その名残もあり当商店街の二十数店舗はやきとり屋またはもつ焼き屋です。当時から現在まで受け継がれている点といえば、先述したとおりの戸板一枚で区切った造り。現在でも店舗と店舗の壁がくっついた造りになっている店舗が多いのです。
昭和30年代に入るとやきとりキャバレーなどという店も現れました。この店では、お客さまはやきとりで焼酎を飲むのですが、めかしたホステス達が接客サービスをするというもの。今考えると面白い光景ですよね。
昭和34年頃になると営団線延長計画や、再開発によるターミナルビル建設等で、当時甲州街道から青梅街道まで連なっていた約300軒の店舗も、不法占拠という事で立ち退く事となり、現在のパレットビル(新宿西口会館)から青梅街道までの店舗が残りました。
その後も、昭和の味はそのままに人情とうまさ、安さで発展を続けてきた新宿西口「思い出横丁」は現在に至ります。”
1時間半ほどで本日の飲み会は終了。男子4名の話題は、まずは健康問題。検査を定期的に受けることも必要との話し。次はトランプ大統領の銃規制、銃拡散問題。さらにはピョンチャンオリンピックの話題。日本選手のメダル獲得数が過去最高とのこと。これは種目数もかなり増えていることにもよる。種目別ではスピードスケート女子の活躍はすごい。また北朝鮮の金正恩の妹の金与正(キム・ヨジョン)の態度。頭を絶対に下げないという考えが理解できない。
感 想
春近い暖かな日和のウォーキング。梅を求めて、歩行距離は少なかったが楽しいものでした。参加者からは、最近このウォーキングは距離が短くなっている。もっと歩こうという意見。よってきょうはラストで、最寄駅ではなくひと駅先の府中駅までとした。内2人は、さらに多摩川沿いを1時間ほど歩いたとのこと。
今回のウォーキングは、何とちょうど10年目であった。第1回44会ウォーキング教室として始まったのが、2008年2月2日(土)であった。第1回目の参加者数が20名、皇居外周道を2周した。数回で終わるだろうと個人的には予想していたが、よく10年も続いたものだと思う。今後はいつまで続くのか。44会の不思議な仲間たちである。
〇皇居二重橋前の10年前の写真です。
Report by Y.Kamiizumi
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