内 容:
1.ウォーキングの部
午後1時半皇居桜田門に6名が集まった。天気は朝まで雨が強く降っていたが、その後止んで、曇り空、寒さはなく歩くと適度にからだが暖まるいい陽気であった。
午後1時35分スタート。いつものように二重橋前で記念写真。相変わらずまわりの観光客は外国人ばかり。大手門から東御苑へ。東御苑は今、工事中の箇所がいくつかあった。いつもの大手休憩所は道路の反対側に移設されていた。今までの場所は三の丸尚蔵館の移転先で今までよりも大きくなるようである。2024年7月完成予定で、3階建て、今までより展示スペースが3倍になるとのことです。さらにその先は、11月14-15日に行われる「大嘗祭(だいじょうさい)」の舞台「大嘗宮(だいじょうきゅう)」の建設が進んでいた。フェンスで囲われており、近くで見ることはできなかった。説明によると大小約40の建造物からなり、今月末の竣工を目指している。
大嘗祭は天皇陛下が即位後初めて執り行われる新嘗祭(にいなめさい)。陛下が新穀を神々に供え、自らも食し、国家安寧と五穀豊穣を祈られる一世一度の重要祭祀。北側の建物は「廻立殿(かいりゅうでん)」と呼ばれる。天皇、皇后両陛下が身を清め、祭服に着替えられる場所。屋根にX字状の「千木(ちぎ)」を載せた東側の「悠紀殿(ゆうきゅうでん)」と西側の「主基殿(すきでん)」が祭場にあたる。陛下は14日夕方から悠紀殿で、15日未明から主基殿で、それぞれ祭祀に臨まれる。これら主要三殿の屋根は平成まで茅葺(かやぶき)だったが、今回は経費削減と短い工期を考慮して、板葺(いたぶき)に変更された。ただ、梁(はり)や柱の建材に皮付きの丸太を使う伝統は令和でも受け継がれている。さらに下記のような行事が予定されている。
(1)即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)10月22日(火)
御即位を公に宣明され、その御即位を内外の代表がお祝いする儀式。
(2)祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)(パレード)11月10日(日)
国民に広く御即位を披露され、祝福を受けられるための天皇皇后両陛下のパレード
午後3時に皇居・宮殿を御出発になり、午後3時半に赤坂御所に御到着。
(3)饗宴の儀(きょうえんのぎ)10月22日(火)、25日(金)、29日(火)、31日(木)
御即位を披露され、祝福を受けられるための饗宴。
(4)内閣総理大臣夫妻主催晩餐会10月23日(水)
外国元首・祝賀使節に日本の伝統文化を披露し、理解を深めていただくとともに、来日に謝意を表する。
(5)一般参観
高御座(たかみくら)等の一般参観。即位礼正殿の儀で用いられる高御座等の一般参観。(東京国立博物館)
令和元年12月22日(日)~25日(水)
令和2年1月2日(木)~19日(日)
※令和2年1月6日(月)及び14日(火)は休館(京都御所)
令和2年3月1日(日)~22日(日)
※令和2年3月9日(月)及び16日(月)は休園
これらの行事の中で、大嘗祭は宗教的な面があるという解釈から国事行為ではなく、皇室の行事と位置付けられている。但しその内容は公的性格があり、その費用を宮廷費から支出することが相当としている。一方即位礼正殿の儀は国事行為として開催され、政治色が強く感じられる。即位礼正殿の儀では、天皇陛下がここに登壇し、即位を宣明される。現在のものは1915年の大正天皇即位礼のために作られ、高さ約6.5メートル、重さ約8トン。クギを使わず、木のかんぬきで接合する仕組みで、朱塗り高欄をめぐらせた黒漆塗りの浜床を土台に、八角形の床板と8本の円柱が大屋根を支える構造となっている。高御座の内部には椅子があり、その左右に歴代天皇に伝わる剣と璽、公務で使う御璽(天皇の印)と国璽(国の印)を置く台を配置する。屋根の上には、古代中国で徳の優れた天子の世に現れると伝えられた想像上の霊鳥、鳳凰(ほうおう)を大小計9つ載せている。皇后さまが昇られる御帳台は高御座をやや小ぶりにした大きさで、大正天皇即位礼の際に初めて設けた。いずれも平成の即位礼で使用した後に、京都御所で最も格式が高い紫宸殿(ししんでん)で保管していた。今回は即位礼に先立ち、約3千パーツに解体し、2018年9月皇居にトラックで移送。本番に備え、専門業者が漆の塗り直しなどの修繕を施した。高御座が天皇の即位に関する儀式で使われるようになったのは奈良時代からとされる。平安時代の書物には、高御座の屋根が現在と同じ八角形だったとの記述もある。
皇居を午後2時半に出て、日比谷公園、新橋経由で浜離宮恩賜庭園に向かった。ここも入口は大手門と言う。65歳以上は半額の150円。午後3時15分着。「東京大茶会」というイベントが行われており、和装の方が多く、いろいろなところで、お茶会、野点が行われていた。羽織はかまの外国人男性も何人かいた。今回の浜離宮は、“コスモスを求めて”というテーマにした。“一面のコスモス畑”と書く予定でいたが、もうコスモスの花はほぼ終わりの時期。ほんのわずかに花が残っていました。この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相 の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得た。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められた。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成した。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となった。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなったが、昭和20年(1945年)11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年(1946年)4月有料公開されるに至った。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年(1948年)12月には国の名勝及び史跡に、同27年(1952年)11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定された。園内をゆっくり散策し、途中、平成30年(2018年)に復元されたという鷹の御茶屋、鴨を獲る仕組みの鴨場を見学、また、木製のこまとけん玉に少しはまった。午後4時20分ごろ浜離宮を出て、新橋駅方面に戻った。
本日のグルメの部を求めて、「根室食堂」に午後4時40分着。本日の歩行距離は10Km。
2.グルメの部
毎年11月のMJO定期コンサートの後の飲み会で利用している店。念のため今年からMJOは会場が渋谷に変わった。午後4時45分ビールで乾杯。その後は、ビールまたはハイボール。ポテトサラダ、さつま揚げ、唐揚げ、ブリ大根、玉ねぎサラダ、サンマ等のおつまみ。
今日の話題は、日韓関係が多かった。慰安婦問題、徴用工問題は過去解決済ではないのかという考えは皆同じだが、今後の解決のためにどうすべきかについてはそのやり方についていろいろな意見ががあった。
日本政府の考えは以下の通り
“日韓両国は,1965年の国交正常化の際に締結された日韓基本条約及びその関連協定の基礎の上に,緊密な友好協力関係を築いてきました。その中核である日韓請求権協定は,日本から韓国に対して,無償3億ドル,有償2億ドルの経済協力を約束する(第1条)とともに,両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産,権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決」されており,いかなる主張もすることはできない(第2条)ことを定めており,これまでの日韓関係の基礎となってきました。”
韓国の理不尽な最近の行動は日本人誰もが許し難いと思っていると思います。しかし今後のためには、日本も従来通り民主主義的規範や国際的規範に忠実に行動し、本音むき出しのような行動はせず、対立の悪循環を断ち切る手段を考える必要があるのではないか。と本日の種々意見のまとめとしました。
感 想
10月は、夏が終わり、寒い冬の前の1年の中でも過ごしやすい季節です。食欲の秋、実りの秋、スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋等何をするにも適した季節なのでしょう。
今回は、コスモスの花を求めて浜離宮恩賜庭園へ。コスモスの花は残りわずかでしたが、美しく可憐な花を写真に収めることができました。今後44会はできる限り花を求めて歩きたいと思いました。
久しぶり、8ヶ月ぶりのウォーキング報告でした。また長くなりました。
Report by Y.Kamiizumi
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